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短編小説『会津に霙が注ぐ』

 私は大阪で飲み屋をやる。一年に一回は三日間ぐらい店を休みにして地酒探しの旅に出る。客に出すためというほどではない。店の客は高価な地酒など飲まない。私は地酒に詳しいわけでもない。職業柄、少しは知っておかなければという程度である。高校の娘と行くこともある。私は妻に先立たれ、大学生の息子と高校生の娘がいる。
 今回は八月の盆休みに一人で会津若松に行った。会津若松は初めてだった。朝、新幹線で新大阪から東京で乗り換えて郡山へ、在来線に乗り換えて会津若松へ。途中で磐梯山が見えた。着いたのは夕方でその日はタクシーで中野竹子の銅像と柳橋に行った。中野竹子は長刀の名手。会津の娘子隊の隊長で、柳橋で長州と戦って戦死した。インターネットで写真が出てくるが、美人だ。タクシー運転手は柳橋は建て替えられたと言う。たしかに昔の橋ではなく普通の橋だ。橋が昔のままだと交通渋滞だと言う。それらに寄ってからホテルへ入った。野口英世青春通りなるものに面する。
 ホテルの部屋で一風呂浴びた後、裏通りの何の変哲もない飲み屋に入った。観光客が来るような店ではなく、盆休みとあって、ママと二人だけになった。野口英世は若い頃あの通りで借金で遊んで借金を返さず、地元では評判が悪い。彼女たちは子供の頃、白虎隊が通ったと言われる有名な水路で泳いだなど、地元の裏話から、地酒の話へ。地酒より、大衆向けの酒のほうが旨いと言う。その酒を飲んでみた。旨い。他に客は来ない。彼女は娘がまだ小さい頃に離婚し、この店をやりながら娘を育てたと言う。娘は今は東京で水商売をしていると言う。
 ふと、思い出した。彼女は写真で見た中野竹子に似ている。
 彼女の店には地元のサラリーマンがよく来るらしい。職場の愚痴や家庭の愚痴をこぼして帰る。居座るのもいる。職場の愚痴はまだしも、家庭の愚痴は聞きたくないと彼女は言う。
 なるほど、欧米にはユーモアなどがあり、東京には粋などがあり、大阪にはお笑いなどがあるから、職場の愚痴は少なく、家庭の愚痴はほとんどない。会津の人は率直なのだろう。
 だが、一番、やっかいなのは寂しさを紛らわそうとする独り者だ。なかなか帰ってくれない。男も女も居座る。会話が止まらない。と私が言ってみると、彼女は孤独は切実なことだから、できるだけ相手をすると言う。それはすごい。私にはできない。いい女なら別だがと私が言うと、彼女はそりゃそうだと言い、結局、私は泊まることになった。
 その店の二階が彼女の住居になっている。店も狭く二階も狭い。二部屋あるが、襖などはない。一部屋同然で、大きな仏壇があり扉が開いていたが、さすがに彼女は閉めた。風呂はあり、今、彼女が入っている。子供の記念写真や表彰状が額に入っている。水泳大会二等などと書いてある。飲み屋をやりながら娘を育てた女の生き様を思うには十分だった。彼女なら再婚も簡単だったろうに。もしや、俺は騙されているのでは。そのうち地元のやくざがやってくるのか。まあ、いいか。
 彼女は眠った。私は眠れない。飲み足りない。彼女を起こして酒があるか聞いた。彼女は一階にあると言って、また寝入った。私は一階におりて、例の日本酒の一升瓶を取り、コップで飲んだ。壁には煤けたサイン入りの色紙が三、四枚貼ってある。サインの主は読めない。
 「孤独は切実なことだから」と言って、執拗な客の相手をする彼女はたいしたものだ。私は客を選んでいる。
 そのとき、遠い所で銃声のようなものが聞こえた。と言っても、私は銃声なるものをテレビや映画でしか聞いたことがない。そのうち眠くなった。
 翌朝。ここはどこだ。私は会津若松に来たはずだ。その後、飲み屋に入って、その二階。そのママ。彼女。中野竹子。居ない。その二階であることは確かだ。一階から彼女の声がした。
「あんた」
えっ? あんた?
「起きて。」
 一階に下りてみると、朝食ができていた。彼女と差し向かいで食べた。旨かった。
 日中は彼女が会津若松を一通り案内してくれることになった。店の常連というタクシーの運転手を呼んでくれた。一日五千円で回ってくれることになった。私がトイレに行っている間に彼女と運転手の間で込み入った話しがあったようだ。昨夜、殺人事件があった。あの銃声だ。運転手も聞いたと言う。チンピラが殺された。そのチンピラというのが彼女の別れた夫だった。彼女は少し恐れているようだった。東京の娘も殺されるかもしれない。えっ? 娘までやくざと係っているのか。もしかして彼女も。運転手は安心するよう言う。やくざにしてもたいしたものではない。チンピラ同然だと言う。まあ、ここに居るよりは、会津若松を巡ろうということになった。
 鶴ヶ城、近藤勇の墓を経て、飯盛山へ向かう。運転手は会津若松の歴史を語ってくれた。戦に負けた後、会津側の戦死者の遺体を葬ることが禁じられた。遺体が数カ月放置され街中が臭かったらしい。その後、遺体の処理に犯罪者が使われた。中には自ら犯罪を行い遺体処理に加わって仲間を葬った者がいた。生き残った者は下北半島の開発に移住させられたと言う。
 その間、彼女は携帯で東京の娘に連絡をとったが、なかなか繋がらない。ようやく繋がると、彼女は娘に会津に帰ってくるなと言う。運転手もその方がいいと言う。娘は彼女に東京に来るよう言う。私はそのほうがよいと思ったが、彼女は店があるからと断る。運転手は語り始めた。会津若松、特に観光業者は街のイメージアップのためにやくざを追い出そうとしたと言う。だが、一部が残っている。残っているやくざの間とやくざと市民の間で争いがある。残っているやくざの端くれが彼女の別れた夫だと言う。彼女の娘はその父とときどき会っていた。娘は十代半ばでやくざとの関係もあった。娘か父かがやくざの金を持ち出したという噂がある。私は思わず言った。それなら娘さんは東京にいても危ないだろう。彼女は娘に警察に相談するよう言うが、娘はいやだと言うらしい。私は彼女に言った。娘さんはしばらく関西に隠れるほうがいい。給料は安いが私の店で住み込みで働いてもらってもいい。彼女は娘にその話を勧めた。結局、娘は今日は東京のどこかに身を隠して、明日、私と大阪に行くことになった。私も電話を替わり、明日、午後三時に東京駅の銀の鈴で待ち合わせることにした。
 彼女は自分が娘と連絡をとったことを警察には言わないで欲しいと言う。警察から聞かれれば、言ってもかまわないが、自分から言わないで欲しいと言う。私と運転手は了解した。彼女は娘との交信履歴を消した。私は娘の携帯電話番号を暗記した。
 彼女と運転手は暑いと言う。私にしてみれば、大阪より涼しい。ビルが建て込んでいないから風が通る。運転手は待ってくれて、私と彼女は飯盛山に登った。白虎隊の墓。さすがに写真をとる人はいない。緊張感が漂う。鶴ヶ城が落城して燃えていると白虎隊が錯覚した展望台。白虎隊はその錯覚によって自刃したと言う。彼女はそんな話を子供の頃から何回も聞かされてきた。それでも、そんなことはあってはならないと言う。錯覚でも何でも自刃や戦いはあってはならないと言う。それを語りながら彼女は鶴ヶ城を見つめる。美しい。私は思わず彼女の肩を抱いた。彼女は泣いた。
 白虎隊が渡って飯盛山に入ったという、また、彼女が子供の頃、泳いだという水路へ行った。流れが急だ。
「よくこんなところで泳げたな。流されなかったか?」
「流される子もいたかな。」
 溺れた子もいたのか。一つの水路で歴史は巡る。生と死を繰り返し。彼女は五十円出して線香を買い灯し立てた。線香屋はいなかったが、後でやってきた。線香の束が五十円なのだが、彼女は一本だけとって五十円置いていた。線香屋は本当に申し訳なさそうに謝り、残る束を渡そうとした。彼女は笑って「いいのよ」と去ろうとする。線香屋が恐縮していたので、私がもらって彼女に渡した。
 かき氷屋に入った。霙を頼んだ。観光客で混んでいて、霙はなかなか来ない。彼女の涼しげな目。彼女は言った。
「霙がずっと来なければいい。」
「…」
「こんなにのんびりするのひさしぶりだな。」
と言いながら、運転手をあまり待たせるのも悪い。結局、霙を辞退して、アイスキャンディーを三本買って店を出た。店の人は恐縮していた。人の心も巡る。彼女も私も線香屋もかき氷屋も運転手も。
 タクシーに戻る。アイスキャンディーをなめながら、ひとまず彼女の店の前を通ってみることにした。店の前を通ってみると、やはり警官が二人、立っていた。彼女も運転手も安心したように挨拶した。彼女の店の常連客らしい。
 警官も店に入って座った。彼女は冷茶を出す。警官はうまそうに飲んだ。警官は最初から彼女を疑っていない。むしろ、彼女と娘を警護したがっている。娘については少し疑っているようだ。警察は娘と話がしたいと言う。娘は見ず知らずの電話をとらないだろうから、彼女が娘に電話してみた。繋がらない。娘も感づいているのか。警官は何かあったら連絡してくれと言って去って行った。
 盗聴器? まさかそんなことはない。彼女は店の開店準備に忙しい。運転手は車を返してまた戻って来た。私は運転手とテーブルで例の酒を飲み始めた。私の妻が亡くなったのは子供が大きくなってからだが、運転手はまだ子供が小さいうちに妻に先立たれ、二十歳の息子がいる。息子は地元の工業高校を卒業した後、東京の電気工場に勤め、ボクシングジムに通う。秋に三回戦の試合があると言う。私が見に行くのか尋ねると。
「どつきあいはきれえだから、行かねえよ。」
彼女はその気持ちは分かると言う。
「子供がどつきどつかれるところなんか見たくもないよね。」
 しばらくして中年男が入ってきてカウンターに座った。男は酒に弱い。職場の愚痴をこぼす。
「こんなことがあってやってられるかってんだ。」
私は大阪出身だから、運転手と関西弁で話していた。男はそれが気に入らないようで。
「うるせえんだよ。ここをどこと思ってやがんだ。」
と言いながら、男はカウンター越しに彼女と話し込む。結局、男は彼女と一緒になりたい常連客、独身らしい。男はやくざでもなく、今回の事件とも係わりがなさそうだ。他にも男の客が二、三人来たが、彼らもその男を適当にあしらう。慣れているようだ。
 運転手は言う。彼女が結婚した頃、夫と彼女は地元のホープだった。夫と彼女は会津からやくざを追い出す先頭に立つことになった。それが結局、夫はチンピラになり、彼女は離婚。娘はやくざと係ったと言う。
 例の男は亭主顔して彼女と話している。彼女も慣れたものだ。彼女は私を大阪の同業者とその男に紹介した。
「それはどうもお見それしました。」
男は呂律が回っていない。今度は男は私に話し込むようになった。通天閣に上ったことがある。釜ヶ崎の公園で将棋を指したことあると言う。
 私は言った。ママは中野竹子に似ていないか。店の客も同調した。ママは私より娘のほうが似ているという。私は思わず明日、会うといってしまうところだった。まさか、子孫? 彼女も他の客もそれはないと言う。
 例の男も満足したのか帰って行った。他の客も帰り、再び私と彼女と運転手の三人でテーブルを囲んだ。運転手も私も酒に強い。彼女も少しは飲む。考えてみれば、配偶者に先立たれた者たちのミーティングだ。
 そこへ、例の警官の一人から店に電話が入った。犯人三人が逮捕されたから安心するようにとの電話だった。その三人はやくざの中堅との話だった。何が安心できるか。会津ではしばらく安心だろうが、東京ではどうだか分からない。運転手も同調した。そのうち、運転手も明日、仕事だからと帰って行った。私は運転手に感謝した。
 私と彼女は二階に上がって寝転んだ。
「ごめんね。娘をよろしくね。」
「いいんだよ。」
私もいつのまにか関東弁になっていた。関西弁なら「かまへんで」と言うところだ。私は彼女に言った。しばらく大阪で飲み屋をやるのも娘さんにはいい経験になるだろう。私の店も助かる。実際、娘目当てで客が増えるだろう。だが、そのうち会津に戻って欲しい。
 翌朝、彼女は会津若松の駅まで送ってくれた。私は年末に娘さんと一緒に戻ってくると伝えた。
 東京までは長かった。わずか、二泊三日だが、私も会津の人になったような気がした。
 東京駅の銀の鈴。昔は八重洲口を出たところにあったが、今は改札内にある。娘とはすぐに会えた。中ぐらいの大きさだが重たげな鞄をもっていた。確かに娘のほうが中野竹子に似ている。だが、中野竹子はもういいんだよ。彼女たちは彼女たちなのだ。新幹線の指定席を二人分、取ってから、駅構内の蕎麦屋に入った。娘はちゃんと自分の切符代を出した。私の分まで出すというがそれは辞退した。
 わたしは経緯を聞いてみた。娘はありのままを語っているようだ。自分が持ち出した金は数十万だけ。東京ですぐに使い果たした。父はやくざに利用されただけ。父はかわいそうだ。父が殺されたことを知ったときは悔しかった。やくざの狙いはわずかな金ではなく、会津の利権にある。やくざは自分などを相手にしないだろうが、大阪でお役に立てれば嬉しいです、と娘は言う。店の二階が空いているからそこに寝泊まりすればいい。休日は水曜と祝日、盆と正月、時給は八百五十円、賞与なし、昇給なし、午後3時から午後12時までの勤務、食事は店の食材を使うよう私は伝えた。娘はありがとうございますと言う。暮れには会津に戻ろう。娘はうなずいた。
 娘はよく働き、実際に娘目当てで客が増えた。私の飲み屋にもったいない女ともいえる。やっかいな客をあしらうのもうまかった。娘にも彼がいた。東京の大学生だそうだ。そういえば、娘はまだ十七歳である。大学生でも年上だ。その彼が月に一、二回、大阪まで来てくれるらしい。学生は暇なのだ。彼女の娘は私の娘とも仲良くなって、日曜の二時頃まで一緒に遊びにいくこともあった。ついでに私の娘が店の仕事を手伝うこともあった。考えてみれば、彼女の娘と私の娘は同い年だ。娘らが遊びに行く小遣いぐらいは私が出した。ところで、私の息子はサークルなるものと自分の彼女に忙しく、そんなことにはおかまいなしである。
 十二月に入って、彼女の娘は会津に帰省することになった。私も同行することになった。私は彼女と連絡をとっていたが、彼女も事件のことを忘れているようだった。二十九日に会津若松に戻って、私は三十一日に大阪に帰ることになった。私の店の休みは二十九日から三日まで。彼女の店の休みは三十一日から二日まで。それと、私の娘までが同行することになった。会津に行ってみたいという。
 彼女の娘にしてみれば二年ぶりの会津である。若い人にとっての二年ぶりの帰郷は、歳をとった者の十年ぶりの帰郷に相当するのだろう。彼女の娘も事件のことや父のことを忘れているようだった。
 ところで、私の娘は、母親は亡くなったものの、彼女や彼女の娘が味わうような苦労はなく育ってきた。同い年でも彼女の娘とは境遇が対照的とも言える。だが、それは一見したところであって、私は私の娘の意外な側面を見ていくことになる。
 二十九日、新幹線で新大阪から東京へ、東京で乗り換える。ホームは帰省する人々でごったがえしていた。それぞれの人がそれぞれの思いをもって帰省する。彼女の娘も、私も。私の娘は何を思っているのか。会津で中野竹子の銅像、柳橋に行きたいと言う。インターネットで調べたと言う。これは何の一致なのか。
 会津若松に着くと、三人で中野竹子の銅像と柳橋に寄った。それから彼女の娘を彼女の店に送った。私と彼女は少し顔を合わせた。ここで夕御飯をみんなで食べようということになった。私は娘とホテルのツインの部屋にチェックインした。それから彼女の店に行って、夕御飯を食べた。彼女の娘は大阪での生活を語った。私の娘と難波に行った。神戸に行った。祇園に行った。USJはまだ行ってない。姫路城は大修理中。金閣寺や清水寺は行った。一番よかったのは神戸のルミナリエかな。祇園もよかった。二年坂、三年坂。彼女は喜んだ。店を娘らに任せて私と彼女は散歩に出た。寂れたホテルに入った。黒ずんだ絨毯。細く長い壁のひび。窓に映るネオン。彼女は言った。
「人生っておもしろいね。」
私は同じことしか言いようがなかったので、
「イエーイ」
 一時間ちょっとで店に戻ってみると、夏と同様の客が来ていた。娘らも慣れたものだ。例の男は相変わらず呂律が回らない。あのタクシーの運転手は来なかった。翌日は、私と私の娘が会津見物をし夕方に彼女の店に戻り、彼女と彼女の娘は日中、店の大掃除をすることになった。
 翌日、鶴ヶ城から近藤勇の墓、飯盛山へ。飯盛山の白虎隊の墓ではさすがに娘も神妙になった。考えてみれば、白虎隊は娘と同年輩だ。娘の希望で斎藤一の墓、新撰組記念館にも寄った。新撰組三番隊組長、斎藤一。土方歳三が転戦するとき、斎藤は土方に「あんたは会津を見捨てるのか」と言ったという。斎藤は後に会津で警官になった。墓には清涼飲料などが供えてあった。私が「やっぱり酒やろ」と言うと、私の娘は「酒が嫌いやったんやろ」と言う。夕方、彼女の店に戻った。あのタクシーの運転手が来ていた。その息子も来ていた。男前だ。三回戦の試合は負けたと言う。ボクシングはやめたと言う。運転手はそれを喜んでいた。このあたりには格闘技は廃止という風潮がある。少なくとも子供に格闘技を勧めるべきではないという主張がある。それはもっともだと思う。彼女も彼女の娘も私の娘もそれを認めた。運転手の息子と私の娘との間には何かができたようだった。縁は異なもの粋なものという関東の諺が身に染みた。
 しばらくして、あの警官の一人が制服のままやってきた。警官も常連客で、他の客は飲んで行けと言う。警官は真剣な顔をしていた。
 警官は彼女に向かって言う。亡くなったご主人はチンピラなんかじゃなかった。ご主人は最後までやくざから会津を守ろうとした。ご主人の怨念はわれわれ警察が晴らす。何があってもあんたたちを守る。警官はそう言って敬礼をして去って行った。
 彼女は思わず泣いた。彼女がこんなに泣くとは思わなかった。十数年を泣いているのか。彼女の娘は涙を浮かべるが、何かを心に決めたようだった。それは明かに、もうやくざみたいにならないのではなく、やくざを潰すという意気込みだった。
 私は、明日、三十一日に、亡くなったご主人の墓参りに行こうと言った。翌日の朝に墓参りに行き、私と私の娘は昼に大阪へ発ち、彼女の娘は二日に大阪へ発つことになった。もちろん、彼女はこの店をやる。彼女の娘もそのうちこの店に戻るだろう。彼女たちが会津を見守るだろう。
 翌日、彼女が亡くなったご主人の実家に電話で問い合わせてみると、伯母が健在で、ご主人の遺骨は既に墓に納められたと言う。彼女が警察から聞いた話をすると、伯母はいまさらしかたがないと言う。だが、彼女がお参りをしたいと言うと、伯母は喜んでいたと言う。
 街中の小さな寺。小さな先祖代々の墓。彼女と彼女の娘が線香に火を着けようとするが、なかなか着かない。私と私の娘は傘を差すだけでなく、風を防いだ。線香はなんとか灯った。あのときの線香だ。物と人は巡り巡る。会津に霙が注ぐ。

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